青眼と僕と冒険と

僕とブルーアイズが歩いた軌跡のお裾分け

ちょっとそこまで

ちょっとそこまで珈琲を買いに行くノリで、車を走らせた。

 

 

 

 

日中それなりに忙しかったが、奇跡的に定時退社できたオレは会社を出た。

 

珈琲飲みてェな。

 

暑いと思っていたが、涼やかな風が舞っていた時刻は午後5時。あまりに穏やかな気候。オレの決意は固まった。

 

そうだ、ちょっと珈琲買いに、

 

神戸へ行こう。

 

 

思い立ったはいいが、すでに喉は渇いていた。

 

オレは近くのカフェに入り、カフェオレを注文した。珈琲ちゃうんかいな。できあがったカフェオレを片手に、車に乗り込んだ。京都に近いこの場所の夕日は、もうじき自らを隠そうとしている。優しい残光がオレたちを包む。

それはまるで女神の優しさのよう。

 

今日の気分はラックライフだった。スマホを取り出し音楽をかける。優しいロック調のメロディに、透き通ったボーカルの歌声が車内を埋めた。

 

高速道路は帰宅ラッシュも相まって、渋滞気味であった。みな、西日を目指し走る。オレも仲間にいれてもらった。緩やかな速さはむしろ心地がよい。ひとり俳句を詠もうとして、やめた。

 

 

 

遊戯王について考えてみた。オレはなぜ、遊戯王に固執しているのだろうか。勝ち負けをただ決めるのであれば、将棋でもよいではないか。なぜ、遊戯王なのだろうか。

 

遊戯王は、40~60枚のメインデッキと、0~15枚のEXデッキをもちいて勝敗を決めるゲームであるが、デッキは決闘者がそれぞれ作り上げる。盤上の駒が定められている将棋と違って、デッキを自由に組み上げることができる点において、遊戯王はたしかに、それぞれの個性をだすことができる。

 

ただ、その個性が、友を傷つけることもある。

 

個性が受け入れられないこともある。

 

個性。

 

なぜ、そんな煩わしいモノを抱えてまで、僕らは遊戯王をしているのだろうか。

 

将棋であれば、自らの個性で友を傷つけることはない。

 

なぜ僕らは遊戯王なのだろう。

 

 

 

ふと考えた。

 

なぜオレはいま、車を走らせているのだろう。

 

神戸に行くのであれば電車でもよかったのに。

 

電車であれば、運転する必要はない。ただ座っていれば目的地に着く。

 

だのになぜ、オレはわざわざ車を運転している?

 

現にこうして渋滞に巻き込まれ、最高速度で走れていないではないか。電車であれば、もっと早く着いたであろうに。なぜ。

 

 

 

そうか。

 

オレは車が好きなのだ。

 

ドライブが好きなのだ。

 

だから電車ではなく、車を選択したのだ。

 

運転という煩わしさを抱えてでも、車を走らせたかったのだ。

 

ほら、西日が綺麗。

 

じき沈む西日が。

 

ただ、綺麗。

 

この西日を、独占したかったのだ。オレだけの空間で。好きな音楽で空間を満たし、カフェオレを飲む。この至福を、独占したかったのだ。この事実に気づいたとき、オレはひとつの結論に達した。

 

 

 

人生とは、なにかを走らせることではないだろうか。

 

自分を。

 

走らせることではないだろうか。

 

その手段はひとそれぞれであろう。

 

歩くことを好む者もいれば、ジェット機を走らせる(いやこれはもはや飛んでいるが)ことを好む者もいる。オレは、車を走らせるのが好きだ。

 

これが個性なのか。

 

その個性の軌跡が、人生になるのかもしれない。

 

オレの軌跡は、どんなだろうか。

 

 

神戸に入ったのは、午後7時過ぎであった。

 

「さすがに今から珈琲は無理か」

 

車を停めることもなく、メリケンパークで踵を返す。

 

ライトアップされたビル群を背に走り出す。

 

ちょっとそこまで珈琲を買いに行くノリで、明日も車を走らせる。